自死遺族になってしまった当時のこと。私のお兄ちゃんはどこにいったんだろう

こんにちは。

私は兄を亡くした自死遺族です。

今回は私の兄が亡くなったと知らせを受けたときのことを書きました。

この記事を書いたのは兄が亡くなって10年経ったころ。覚えていることは鮮明に覚えています。

出来事をストレートに書いています。直接的な表現が苦手な方は読まないようにご注意ください。

私の体験や思いを書くことで、少しでも誰かの役に立てたらと願っています。

目次

亡くなった兄のこと

兄はそのとき何を考えて、何を思っていたんだろう?

もう答えのない問いかけ。その問いかけだけがずっとずっと私の中にあります。

28歳だった兄

亡くなった当時の兄は28歳で、29歳になる1か月ほど前でした。


私はもう兄の歳を追い越してしまいました。なんだか不思議な感覚です。
私と兄の関係は、お誕生日おめでとうのメールを送りあうくらいで、仲良くもないし悪くもないような関係でした。
兄弟ってそんなもんでしょうかね。

 
2011年の夏に兄は亡くなりました。
東日本大震災があった年ということもあって、忘れたくても忘れられません。

私は当時24歳で、広島県の実家に住んでいました。

兄は何年も東京で1人暮らしをしていました。

兄はめったに実家に帰って来なかったです。なので当時私は兄と1年以上会っていませんでした。


兄が亡くなった場所は東京とも地元とも離れた土地で、人が踏み入れないほどの山奥でした。

亡くなったときの兄の状態


解剖の結果、兄は10日間ほど何も食べていなかったそうです。


川に入ったのか倒れて顔が浸かったのかは分かりませんが、直接死因は溺死でした。
兄が持っていたリュックの中には遺書、免許証、メモなどがありました。それらは実家にとってあります。

私はよくこんなことを考えるんです。「兄は亡くなるときどんな気持ちだったのか、後戻りすることはどうしてもできなかったのか」。

もう想像することしかできません。

こちらは兄の実際の遺書の内容(一部)です。

「これから日本はどうなるんだろう?」
「カープの優勝が見たかったな」
「自分は迷惑をかけてばかりの存在です」
「消えます さようなら」

他にも色々と書いてありましたが、省略しています。

野球が好きだった兄。この年の何年かあとに、カープが日本で優勝したんです。野球にあまり興味がない私ですが、当時の盛り上がりようはよく覚えています。

スーパーで色々なものが安くなっていましたね。

天国があるなら、兄はそこで見ていたかなぁ?喜んだかなぁ?

街中がカープの色。真っ赤になったんだよ。

兄の職場から「無断欠勤している」という連絡が実家に入る

ある真夏の日、母が「兄と何日も連絡がとれない」と言い始めました。

この1週間後くらいに、東京の兄の職場から実家へ電話が入りました。その電話の内容は「1週間ほど無断欠勤をしている」とのことでした。


連絡をしてくれたのは兄の上司の方。その上司は毎日兄のアパートに訪問してくれていたと聞きました。

その翌日に母と二人で東京へ


その上司から連絡をもらった翌日、急きょ新幹線で母と二人で東京へ行きました。
私は職場に事情をそのまま話し、その日は休みをもらいました。

東京に着き、その上司と合流し、不動産屋でアパートの鍵をあずかりました。そのまま兄のアパートへ3人で歩いて行きました。

そのときは真夏だったのでものすごく暑かったのを覚えています。

最寄り駅すぐ近くの不動産屋から兄のアパートまで20分くらい歩いたかな。坂道が多くて汗だくになりました。

結局兄は部屋にいませんでした

兄のアパートに着き、鍵を開けて中に入る。

私はこの時・・・

ちょっと、いや、かなり、覚悟をしてしまってました。

「もしかしたら部屋で死んでるんじゃないか・・・」と。以前兄は未遂をしたこともあったので、可能性はあると。

もしも見つけたら・・・警察?救急車?110番?と頭でイメージしていました。


母がもし見てしまったら、たぶん母は壊れる。だから「私がやらなきゃ!」と、なんとか正気を保っていたと思います。


トイレやお風呂のドアを開けるときの感覚。

その瞬間は

脳みそが凍ったような、体中の血が一気になくなって体温が一瞬で奪われたような

言葉ではうまく表現ができない感覚になりました。


取っ手を持って開ける瞬間は、今もはっきりと覚えています。

開けてしまったら、私は「普通」ではなくなる。開けてしまったら、何もかもが変わる。


思い出すと心臓が未だにドクドクします・・・。

自分で自分も支えきれないくらいだったのに、私は母に負担をかけたくない一心で、ポーカーフェースを装っていました。

しかし良かったのか悪かったのか、トイレにもお風呂場にも兄はいませんでした。

兄の部屋はきれいすぎず、汚なすぎず。
パソコンがありましたがパスワードが分からずログインできません。

私は冷蔵庫を開けてみました。一人暮らし用の背の低い冷蔵庫。

中に2週間くらい賞味期限が切れたヨーグルトを見つけたんです。
「もしかして何日も帰ってきてないんじゃ・・・?」と直感で感じました。でもそれを母には伝えませんでした。

これという手がかりも見つけられなかったので、この日はまた新幹線で帰ることに。
私と母が書いた手紙をポストに入れて帰りました。

上司の方は「電気のメーターは動いているから、夜には帰っていると思う」
と、母を安心させてくれました。

警察から自宅への電話

その後、母は捜索願いを警察に出しました。

母と東京に行った日から1か月ほどが経ったころ、実家からも東京からも遠いところからの警察署から実家へ電話がかかってきました。
母が電話をとり、私もそこに居合わせていました。

なんとなく、変な予感がして、それは的中してしまった。

電話越しに相手の声が聞こえました。
「落ち着いて聞いてください。〇〇さん(兄の名前)のご遺体が見つかりました。」

私はスーーーーーっと全身の血が消えていくような感覚になりました。でも正直、この直後のことはあまり覚えていないんです。

このころから、私は電話の音が怖くなりました。「何か悪い知らせなんじゃないか?」と身構えるようになってしまいました。

その電話があった翌日、父と母がその現場の警察署へ行きました。そしてその後日に父と母は二人で兄のアパートを片づけに行きました。

実家に帰ってきたのは兄のパソコンや棚。ミスチルが多めのCDたち。

母と父がどんな気持ちで息子の部屋を片づけたのか・・・私はそんなことを考え始めると眠れない日々を過ごしました。

すでにお骨になっていた兄

私が母と新幹線で急きょ東京に行ったときは、兄はもうすでに亡くなって10日ほど経っていたんです。


あの日ポストに入れた手紙は読まれるはずもなく、私と母の元に戻ってきました。

このことは友人には言えなかった

あの頃私は「母を支えなくては」とばかり考えていたと思います。
自分の気持ちは後回しで、後々私もじわじわと精神を病んでいきます。

友達には兄が亡くなったことを言えませんでした。
はっきりと日付などは覚えてないんですが、その騒動のときに私は友達の結婚式でスピーチも頼まれていました。


我ながら良いスピーチをしたと思ってるんですが(笑)
本来なら身内が亡くなったんだから、結婚式への出席は直前だろうと断っても良いはずです。でもあの頃の私はまともな精神状態ではありませんでした。

顔は平静を装っていたけど、内心は全く平静ではなく、「断る」という選択肢すら思いつかなかったんです。

そのとき結婚式をする友達が、私にとって小さいころからの大事な友達だったということもあります。

私の謎のこだわりで、本番では原稿を見ずにスピーチしたかった。なので結婚式までの間、毎日ものすごい練習をしていました。

とにかく、何かに没頭していました。現実逃避をしたかったのかな、と今は思います。

未だに実感がない

実際の兄の体を見ていないからか、兄が亡くなったという実感がありません。
出来事がふわふわとしていて・・・ふわふわがモヤモヤなって。

そのモヤモヤが重くて重くて、肩にのしかかってしんどい。

その頃、仕事も休まず行っていました。これも本来は休んで良いはずですよね。

今思うと、できるだけ家に居たくなかったのかなと思います。


その頃の仕事は接客業だったので、明るく笑顔で忙しく仕事をしていました。
ただ、その頃の記憶はあんまり残っていません。


毎日どうやって過ごしたんだろう?兄のこととは別で、そのころは仕事の人間関係でも色々と嫌な思いをしていました。

とにかくこのとき私は、兄のことを考えたり悲しんだりするというよりは

母の顔色ばかりをうかがっていました。

ゆっくり休めなくなった実家

当時、実家でおばあちゃんが一緒に住んでいました。
兄のことはおばあちゃんには母から「事故で亡くなった」と伝えました。


おばあちゃんは「年寄りの自分が死ねばいいのに!!」とわんわん泣いていました。
おばあちゃんが感情的になって泣いたのを見たのは初めてでしたね。

私は「あ、こんな風に泣いていいんだ」って思ったのを覚えています。

葬儀はせずに、家族だけでお寺に行き、お経をあげてもらいました。
納骨は一周忌の法要を後にということになりました。これは母の希望です。

父は近所にはこの兄のことを隠そうとしていました。

父と姉と私は仕事を休まず毎日出勤していたんです。
母は「それが信じられない!!」「みんな冷たい!!」という感じで、ふさぎ込んでいました。


「悲しんでるのは私だけ」と攻撃的に言うようにもなりました。たぶん、一番言いやすい私にだけ言っていたと思います。

母はもともと精神的に不安定なところがあり、過去に鬱と診断されたこともありました。
このころ母はますます不安定になりました。息子を亡くしたのだから無理もありません。しかも自死で。

それから数年間、けっこうな暴言を母から言われました。

周りから見れば「辛いなら実家を出ればいいじゃん」と誰もが思いますよね。

しかし私は「母を支えるため」と耐えていました。共依存の状態になっていたので、私はもう思考停止していましたね。

また兄の一件で急に共依存な関係になったわけではないです。

もともと昔からこのような関係だったのが、ここにきてかなり悪化したという感じです。


この頃、私はリストカットをしていました。

今思えば、本当に早く実家と距離を置けば良かったと本気で思います。

兄の他に自死した親族

身近な人は兄ですが、他にも何人か亡くなっています。全員が自死ではありません。

もう読みたくない!!という方は閉じれます→

おじいちゃん
私が生まれる1か月前なので会ってはいません。
写真で少しだけ見たことがあります。
おじいちゃんは自宅の車の中で練炭自殺したそうです。
おじいちゃんは、私の兄と姉に「しつけ」として熱い線香を腕に押し当てていたらしいです。
今だと完全にアウトですね・・。当時でもアウトか。
不謹慎ながら、会わなくてよかったのかもしれません。

引きこもりのいとこ
存在自体知らなかったいとこ、亡くなって初めて知ったという「なにそれ・・」状態。
そのいとこは自宅で首つりをしたそうです。
そのいとこが書いた詩の本が出版されていて、母からもらいました。
なんとなく今も持っています。

伯母
母の姉です。私が高校生の時でした。
すごく好きだったおばちゃんなので、かなりショックでした。
おばちゃんも自宅で首つりでした。
なぜか通夜にだけ出て、死に化粧した綺麗なおばちゃんの顔を何回も見ました。
本当に、亡くなっているのか信じられないくらい綺麗でした。
その通夜でお寿司を食べたのを覚えています。

別のいとこ
自死ではない(と信じている)んですが、孤独死です。上記の伯母の娘です。2017年の夏に亡くなりました。
1人暮らしをしていて、鬱だったので仕事を辞めて、貯金で暮らしていました。
猫ちゃんを6匹くらい飼っていたので、猫ちゃんたちどうなったんだろうか、と心残りがあります。
第一発見者は私の母でした。
このいとことは、お互い自死遺族で、連絡も頻繁にとっていました。
今でもたまに、辛い時にこのいとこにLINEを送ることがあります。既読にもなりませんが・・・。
既読になったらなったでびっくりしますね。

書籍「会いたい 自死で逝った愛しいあなたへ」

自死遺族の、さまざまな立場の方の思いを生の声でつづった一冊です。

最後に

本来ならもちろん、身近な人を自死で亡くすというのはしない方が良い経験です。

誰も自死遺族になってほしくないと私は思っています。

その願いとは裏腹に、自死で亡くなる人は多いですよね。

私も自死願望を持っていたので自死を選ぶ人を否定したくはないんです。ただ、遺族の立場にもなって言えるのは「死なないでほしかった」です。

とても難しい問題だと感じます。この私に何かできることはないだろうかと、日々考えています。

最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。

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