どうして私たちは、
好かれたい人にほど、うまく想いが届かないのだろう。
どうして近づきたいと思うほど、遠ざかる感じがするのだろう。
軽やかに関われる人には自然体でいられるのに、
大切な人の前では、なんだかぎこちなくなる。
その深層には、誰もが抱える
とても人間らしい願いがあるのかもしれないと、考えてみました。
「好かれたい」と思うのは、未熟なこと?
誰かに好かれたいと思う気持ちは、行き過ぎてしまうと
子どもっぽくなったり、未熟だったり、
場合によっては見ないふり、気づかないふりをしたくなる感情かもしれません。

好きな人にほど、解ってほしいもん
私自身も、気になっている人に対して
「あの人は私に1ミリも興味がないんだろうな・・・」
と、なんどなく気づいているからこそ、
「気になっている」「好きなのかもしれない」と自覚することを避けたことは何度もあります。
やっぱり、傷つくのは嫌ですもんね。



叶わないならもう好きなのやめたいよ
とはいえ、「好かれたい」と思うこと自体は
とても人間らしくて、誠実な心の動きだなとも思います。
尊敬している人
心を開けた人
安心できると感じた人
そんな相手に出会ったとき、「好かれたい」と願うのは、
心が自然に向かっていく方向なのだと。
この気持ちは、依存でも弱さでもなく、
誰かと心を通わせたいと願う力そのものなのかもしれません。
求不得苦が教えてくれること
仏教には「求不得苦(ぐふとっく)」という言葉があります。
求めても得られないことが苦しみになる、という意味です。
けれどこの教えは、「欲しがるな」と言っているのではないと私は思います。
むしろ、
自分は何を求めているのかを知るための入り口を教えてくれているようにも感じます。



寂しさからなのか、とか?



どんなところに惹かれるのかとか
たとえば、「好かれたい」という気持ちを、もう少し細かくみてあげると
・存在を認めてほしい
・大切に思われたい
・安心したい
・自分を知ってほしい
一人ひとり違うかもしれませんが、こういう、繊細で純粋な気持ちが隠れていることがある。
ただ、得られない現実は、間違いなく辛いです。
それから、寂しいし虚しい。



胸がギュッて痛い・・・
でもその痛みは、自分の本当の願いに気づくきっかけにもなる。
痛みを、無理やりポジ変するわけでもなく、本当にそんな風に思うんですね。
現実を見ることは、心が成熟するということ
人にはそれぞれの立場とか役割があり、その関係性には境界線がある。
人は人、自分は自分、みたいな感覚。
その現実を理解しようとする自分が出てきたとき、
少し寂しさを感じることもあるかもしれません。



同じ気持じゃないのか・・って認めないといけないもんね・・
人とのつながりを求めるほど、寂しさが増したり、
誰かの言葉がそっけない言い方に感じて、傷ついてしまうこともあります。



なんかすごい敏感になるよね
でもそれは、夢から覚めて厳しい現実を生きる、ということではなくて、
心がバランスを取り始めたサインなのだと思うんです。
当たり前だけど、相手の気持ちを完全に知ることはできない。
だからこそ人は、
態度や言葉、関係の積み重ねの中で感じ取ったり話し合うしかない。
それは曖昧だったり日によって変わったり、不確かだけど
同時に、それが「人間関係」ということでもある。



ちょっとずつ傷つくのも、必要なのかもしれない
好かれたいと願った時間が残してくれるもの
誰かに好かれたいと思えた時間は、
たとえ望んだ形にならなかったとしても、消えてしまうわけではない。
心が動いたという事実は、自分が誰かを大切に思えた証だと思えるし、
他者とのつながりを感じられた証でもあると思うんですね。



その時が過ぎ去ってようやくそう思えるかな~・・
もしかしたら、求めても得られない時間というのは、
「自分が本当に欲しかった感覚」に気づくためのステップなのかも。
誰かに好かれたいと思った自分を責めるのではなく、
ただ「そうだったんだね」と受け止められたとき、がむしゃらになるよりも心は少しだけ自由になります。



プライドが邪魔をするほど、長く引きずる気がする
そして私たちは、
誰かに好かれることで価値が生まれるのではなくて、
誰かを大切に思えた経験によって、すでに豊かさを持っているのだと思います。
決してきれいごとを言いたいわけではないです。
自分の中にそういう素敵な感情があったこと。
これを自分が一番大切に思うこと。
ここまでくると、好かれない現実があったとしても、
自分がなくなるということはありません。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。









コメント